〜西田幾多郎年譜〜

1870 (明治3) 5月19日、石川県河北郡宇ノ気村(現石川県かほく市)にて父得登(やすのり)、母寅三(とさ)の長男として生まれる。
1875 (明治8) 5歳 4月、長楽寺内森小学校に入学(後に新化小学校。現宇ノ気小学校)。
1882 (明治15) 12歳 3月、高等小学校を卒業。5月、金沢へ移住し漢文・数学を学ぶ。
1883 (明治16) 13歳 7月、石川県師範学校に入学。秋、姉尚と共にチフスを患い、姉は死去(享年17歳)。
1884 (明治17) 14歳 10月、師範学校を中退。数学の家塾に通い木村栄(ひさし)と出会う。
1886 (明治19) 16歳 3月、北条時敬(ときゆき)に数学を学ぶ。
9月、石川県専門学校附属初等中学科に補欠入学。
1887 (明治20) 17歳 北条時敬宅に書生として寄寓し数学の指導を受ける。石川県専門学校が「第四高等中学校」となる。
10月、第四高等中学校予科第一級に入学。鈴木貞太郎(大拙)・藤岡作太郎(東圃)山本良吉らと同級。
1888 (明治21) 18歳 9月、四校本科1年生となり哲学を専攻。この年に鈴木・山本が四校を中退。
1889 (明治22) 19歳 5月、友人と我尊会結成。
7月、行状点不足で落第。
1890 (明治23) 20歳 3月、四校を中退。
7月、我尊会解散。
秋、目を病み入院。
1891 (明治24) 21歳 9月、帝国大学文科大学哲学科選科に入学。
1894 (明治27) 24歳 7月、帝大選科を卒業。金沢に戻る。
1895 (明治28) 25歳 4月、石川県尋常中学校七尾分校の教諭に就任。
5月、得田耕(たがやす)の長女寿美(ことみ)と結婚。
1896 (明治29) 26歳 3月、長女弥生誕生。
4月、第四高等学校の嘱託教諭(独語)に就任。
洗心庵の雪門禅師に参禅を始める。
1897 (明治30) 27歳 5月、寿美と離縁。四校講師の突然の免職。
9月、山口高等学校の教諭に就任。
滴水、広州、虎関らの禅師に参禅。本格的禅の修業の始まり。
1898 (明治31) 28歳 6月、長男謙誕生。
10月、父得登死去(享年64歳)。
1899 (明治32) 29歳 2月、寿美と復縁。
3月、山口高校の教授となる。
7月、四校教授に就任し金沢に戻る。以後主に、雪門禅師に参禅を始める。
1901 (明治34) 31歳 2月、二男外彦誕生。
3月、雪門禅師より「寸心」居士号を受ける。
1902 (明治35) 32歳 12月、二女幽子誕生。
1903 (明治36) 33歳 8月、京都大徳寺の広州禅師に参禅し「無字の公案」を透過。
1904 (明治37) 34歳 8月、弟憑次郎(ひょうじろう)が旅順にて戦死。
1905 (明治38) 35歳 10月、三女静子誕生。
1907 (明治40) 37歳 1月、二女幽子(享年5歳)。
3月、肋膜炎発病。
4月、紀平正美が『哲学雑誌』で西田を紹介。
5月、四女友子・五女愛子誕生。愛子は生後1ヵ月で死去。
1909 (明治42) 39歳 3月、六女梅子誕生。
7月、学習院の教授に就任し東京へ移住。
1910 (明治43) 40歳 8月、京都帝国大学文学科大学の助教授(倫理学)に就任。
2月、藤岡作太郎死去(享年39歳)。
1911 (明治44) 41歳 2月、『善の研究』(弘道館)
1913 (大正2) 43歳 8月、教授(宗教学)に就任。
12月、文学博士の学位を受ける。
1914 (大正3) 44歳 8月、哲学・哲学史第一講座を担当。
1918 (大正7) 48歳 9月、母寅三死去(享年76歳)。
1919 (大正8) 49歳 9月、妻寿美が脳溢血で倒れ、以後寝たきりとなる。
1920 (大正9) 50歳 6月、長男謙死去(享年23歳)。
1921 (大正10) 51歳 3月、倉田百三が『愛と認識との出発』で『善の研究』を絶賛。
5月、三女静子が肺を病む。
1922 (大正11) 52歳 5月、四女友子・五女梅子がチフスにより入院。
9月、新居に移る(書斎に「骨清窟(こつせいくつ)」と号をつける。
1923 (大正12) 53歳 1月、信濃哲学会の講演を開始。
9月、三女静子・四女友子が肺を病む。
1925 (大正14) 55歳 1月、妻寿美死去(享年49歳)。
1927 (昭和2) 57歳 5月、帝国学士院会員となる。
1928 (昭和3) 58歳 8月、京大停年退職。
1929 (昭和4) 59歳 2月、京大名誉教授となる。
1930 (昭和5) 60歳 5月、田辺元「西田先生の教えを仰ぐ」で西田哲学を批判。
1931 (昭和6) 61歳 12月、山田琴と再婚。
1932 (昭和7) 62歳 4月、鎌倉に住居を得て、京都との往来を始める。
1936 (昭和11) 66歳 10月、宇ノ気小学校に『中江藤樹全集』を寄付。
1940 (昭和15) 70歳 3月、山本良吉と対談(レコード録音)。
11月、文化勲章を受章。
1941 (昭和16) 71歳 1月、御講書始の儀で「歴史哲学について」を御進講。
4月、四女友子死去(享年33歳)。
10月、リューマチを患い10ヶ月ほど病臥。
1942 (昭和17) 72歳 7月、山本良吉死去(享年70歳)。
1945 (昭和20) 75歳 2月、長女弥生死去(享年49歳)。
6月7日、尿毒症により死去。東慶寺にて葬儀。法名、曠然院明道寸心居士。
※年齢はその年の5月19日以降の年齢となっています。


※データベーストップ画面へお戻りの場合は、左のメニューから「データベース」を選択するか、
ブラウザの「戻る」機能でお戻りください。

一覧に戻る