西田幾多郎とは
「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたと云えば、それで私の伝記は尽きるのである」
これは、西田幾多郎が京都大学を退官するときに述べた言葉です。
金沢で学び、主に金沢、京都で教鞭をとり、晩年は鎌倉で思索と執筆に明け暮れたその一生は、一見分かりやすい人生だといえるかもしれません。しかし、その75年の生涯をつぶさに見ていくと、苦難と悲哀の重なりがあり、思索の苦闘があり、様々な人との出会いがありました。西田の人生は、生きることがそのまま思索でもあるような歩みでした。
人は人 吾は吾なり とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり
これは昭和9年、西田幾多郎64歳の元旦に詠まれた歌です。己の道をひたすらに追い求めた強い信念が伝わってきます。
故郷 かほく、金沢
西田幾多郎は、明治3年(1870年)、石川県かほく市に生まれました。幼少期には、日が暮れるのも気づかずに土蔵の中で漢籍を読みふけり、探しにきた家族によって発見されたといったエピソードも残っています。また一方で、友達と野山を駆け巡り、川で釣りをし、海で泳ぐといったように、故郷の自然に親しみながら成長しました。
その後、西田は石川県師範学校に進学しましたが、腸チフスを患い中途退学、第四高等中学校(中途退学)、東京の帝国大学選科へと進学しました。
社会へ出た後は、地元石川の尋常中学校七尾分校の教師を経て、母校である第四高等学校の講師となります。第四高等学校では、生徒にからデンケン先生(デンケンとはドイツ語で「考える」の意味)と呼ばれていました。 西田は京都帝国大学の助教授になるまで、途中、山口や東京の学校で教職につく期間があったものの、人生の半分を石川を拠点に過ごしています。
「西田哲学」発祥の地 京都
西田が京都で生活をはじめたのは、明治43年、人生の折り返し地点を過ぎた40歳のときでした。西田は京都帝国大学助教授として京都へ赴任し、以後58歳で退官するまでの約20年間、人生の壮年期を古都・京都で過ごすことになります。
この時代『善の研究』の出版を皮切りに、次々と論文を発表するなど、西田の思索において極めて重要な時代であったと言えます。
京都時代の西田は、学問的な成功を収め順風満帆に見えますが、私生活のほうに目を移せば、家族の病臥、死が重なり、苦難に満ちたときを過ごしていました。「哲学の動機は驚きではなくて深い人生の悲哀でなければならない」という西田の言葉を借りるならば、この時代こそが、西田の思索が「西田哲学」として完成する第一歩を踏み出した時代と言えるかもしれません。
なお、当館の敷地内には、京都から移築された西田の書斎が残されています。
終焉の地 鎌倉
京都大学を退官した西田幾多郎は、1年のうち夏と冬を鎌倉で、春と秋を京都で過ごすという暮らしをはじめます。
西田は海を愛していました。それは幼き日々を過ごした白砂青松のかほくの記憶に起因していたのかもしれません。鎌倉の海に故郷かほくの風景を重ねていたのではないでしょうか。
昭和20年6月7日、西田幾多郎75歳のとき、七里ヶ浜近くの自宅で、その生涯の幕を下ろしました。
西田の遺骨は故郷かほく、壮年期を過ごした京都、終焉の地鎌倉にそれぞれ分骨、埋葬されています。




